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こうちeye

土佐人力

【ピンチをチャンスに 小八木喜尊さん 2】

15年06月11日(木)

そうした中、小八木さんは、会社の方針転換を図ります。それまで作ってい
た紳士用カッタ−シャツから個々のデザインが際立つ女性用のブラウスへ
の加工へと大きく舵をきります。するとそれが大成功。海外有名ブランドの
クリスチャンディオ−ルから注文が入るなど、最盛期は100人の従業員を
雇うまでになりました。
縫製工場をスタ−トして30年あまり。還暦を迎えた時、小八木さんに思いも
よらない話が舞い込んできました。大手食品メ−カ−・カゴメの大規模ハウス
施設を三原村が誘致するにあたり、その運営を依頼されたのです。縫製工場
で成功を収めた小八木さんの手腕が買われたのです。「60歳を過ぎた自分が
こんな広大な事業に乗り出すのは、体力的にもどうかとも思ったが、長年、
縫製の世界で大勢の従業員とやってきた事が生かせる職場になるかなと思っ
た事が一つ。それから、この事業を成功させて三原村の発展につながればと
いう思いがあった」と小八木さん。素人ができるのか。どうせ失敗するなど
周りからは心ない言葉があがっていました。そして初めての出荷が間もなく
という時、その不安が的中するような出来事が起こります。トマトの枝が
一本、二本と枯れてきたのです。青がれ病の発生でした。「言葉に出せない
ほどのショックを受けた。人の噂で、農業素人の小八木がやってうまくいく
訳がないという言葉が聞こえてきて・・・」。
全ての植え替えを決断した小八木さん。窮地に追い込まれる中、救いとな
ったのが従業員達の言葉でした。「従業員が自分達も必死になって頑張る
ので、社長はくじけないで会社を続けて下さいと言われたのが一番の励み
になった。自分の事を信じてついてきてくれる。最高に嬉しかったし、従業
員のためにも、必ず成功して喜んでもらえる会社にしないといけないと決意
した」と話す小八木さん。このピンチは逆に、従業員の意識とチ−ムワ−ク
を高める結果につながりました。トマトの小さな変化や衛生環境に細かく
気を配り、一人一人が仕事を徹底。すると、植え替え直後の生産量が計画の
2倍を達成します。大きな失敗が、スタッフの団結という大きな力を生み出し
たのです。「最高の従業員に恵まれた。従業員は宝」と小八木さん。
小八木さんは今、新たなステ−ジに挑戦しています。先月、起工式が開かれ、
建設がスタ−トした四万十町の次世代施設園芸団地です。国の農業強化策の
一環で進められているもので、みはら菜園よりも大きな4.3ヘクタ-ルのハウス。
来夏からトマト栽培がスタ−トします。その国家的事業の中心に小八木さん
がいます。「世界でも最高水準の施設ができても、そこで実際に作業する人
がついていける、それ以上の人材を作らないと宝の持ち腐れになる。人が
一番大事。優秀な従業員と一緒に成功できるよう努力する覚悟」と小八木
さん。来月76歳になる小八木さんがこんな言葉を書いてくれました。
【挑戦 小八木喜尊】「人生の転機が3・4回あり、自ら挑戦して克服しようと
ピンチをチャンスにと捉えて、今まで生きてきた。四万十町の事業が私の
最後の挑戦。一生懸命頑張ることを決意している」。ピンチをチャンスに。
小八木さんは、愛するスタッフに支えられながら更なる挑戦を続けます。

【ピンチをチャンスに 小八木喜尊さん 1】

15年06月11日(木)

今日は、成功の請負人。三原村の敏腕経営者です。優れた経営手腕で目の前
に立ちはだかる壁を乗り越え、事業を成功に導く男性がいます。ピンチを
チャンスに変えてしまうそのパワ−の源はどこにあるのか?彼のル−ツを
たどると、まだ幼さの残る時代に味わった壮絶な人生が見えてきました。「
15歳で大阪に行って、本当に死ぬかもしれない。そういう所から叩き上げて
きた。どんな貧乏のどん底でも耐えられる。というようなことから今の自分
があるんじゃないだろうか」。今日の土佐人力は三原村の敏腕経営者、四万十
みはら菜園の小八木喜尊さん(75)です。
三原村でトマトを作っている小八木さん。農園というよりは、植物工場とい
う表現が似合うこの施設は、大手食品メ−カ−・カゴメの生食用のオリジナル
製品のために2003年に稼働を始めたもので、施設園芸としては四国最大、2.7
ヘクタ-ルのハウスで、年間1000トンを生産しています。栽培方法は、農業先進国の
オランダに倣い、最先端のシステムを取り入れた「ロックウ−ル養液栽培」と
呼ばれるもので、ハウス内の養分の量や二酸化炭素の濃度などが最適な環境
になるようコンピュ−タ−で制御されています。生産効率は10ア-ルあたり50トン
と通常のおよそ2倍で、施設ではカゴメブランドの4種類のトマトのほか、合わ
せて10種類を作って大手ス−パ−などに卸しています。「温室の中の温度や
湿度を調整し、コンピュ−タ−で全部管理しているからトマトが喜んで、どん
どん成長してきれいな実をたくさんつけてくれる」と小八木さん。
四万十みはら菜園には、一般的な農園とは明らかに異なる点があります。
従業員は、毎週土日、完全週休2日制。月曜日から金曜日まで、全員が集中して
仕事をこなすことでそれを実現していて、そんな農園は全国にも例がないそ
うです。「厳しいけど仕事のやりがいがある。従業員のことを考えてくれる社
長。仕事はきついがこんな恵まれた職場はない」と従業員は話します。
小八木さんが人生の出発点となったある場所を案内してくれました。やって
来たのは土佐清水市です。60年前に家族と別れた場所。色々な感情が交錯する
想い出の海岸です。「ここは自分が独立する。親の元で甘えていた私が、親兄弟
と別れて独り立ちする決意をした一番印象に残る場所」と話す小八木さん。
三原村の貧しい農家に生まれた小八木さんは、中学を出てすぐに親戚を頼って
この海岸から船に乗り、大阪へ向かいました。大阪の縫製会社で住み込みで働
くためでした。しかし、歳はまだ15歳。知らない土地での丁稚奉公は、寂しく、
厳しく、苦しい毎日でした。それでも必死に先輩の技を盗み、がむしゃらに働き
続けた小八木さんは、めきめきと裁縫の腕を上げ、後に、大阪で出会った宿毛市
出身の女性と結婚。29歳の時に故郷三原村に戻り、裁縫会社を立ち上げます。
腕には自信がった小八木さん。従業員に技術を伝えながら会社は順調に業績
を伸ばしていきます。しかし、しばらくして小八木さんをどん底に追い込む時
代の荒波が押し寄せました。県内にも大きな影響を及ぼしたオイルショック。
取引業者への販売が大きく落ち込み、小八木さんの会社は、次の週には倒産す
るかもしれないというギリギリの経営が続きました。「キツイも何も。仕事の
事、資金繰りの事を考えたら夜も眠れない。それが尾を引いて脳梗塞で倒れた。
病気から這い上がらないといけないという気持ちで頑張った。縫製工場時代
は一番のどん底、地獄を見た」と当時を話す小八木さん。

【壊れた傘に息吹き込む 濱口茂城さん】

15年06月04日(木)

今日は、半世紀あまりに亘って、壊れた傘に息を吹き込み続けている傘職人
です。持ち込まれた傘の修理。器用な手つきで傘の骨と支えを接合し終えると、
他にも悪い所がないか確認して修理完了です。世はビニ-ル傘全盛の時代。そんな
時代に傘の修理を続ける職人がいます。困った人を助けようという気概と、
真面目にコツコツと仕事をする姿勢を父親から受け継ぎ、半世紀あまりにわた
って依頼に応えようとしてきたその原動力とは?「難しい仕事で捨てようかと
いうものを自分の力で直して、喜んで持って帰ってもらうのが一番良い」と話す
男性。今日の土佐人力は、高知市の傘職人濱口茂城さん(89)です。
高知市の菜園場商店街。この傘店を経営するのが職人の濱口さん。濱口さんの
作業場は、店の奥のおよそ2畳の小上がり。ここで59年間、傘の修理を続けていま
す。修理の注文は、骨の歪みや折れ、接合部や傘布の外れまで内容は様々。どんな
注文にも応えようと半世紀あまりの経験と技術を駆使します。「捨てないといけ
ないものを直す手順を自分が考えついた時が嬉しい」と濱口さん。
この日、取りかかっていたのは、珍しい6本骨の折り畳み傘の修理。数え切れない
在庫の中にも壊れた先端の部分に合うものが無く、自分で作る事に決めました。
「子供の時からおもちゃを買ったことがない。全部自分で作った」と濱口さん。
子供の頃から手先が器用で、得意にしている竹細工は、今も仕事の合間に続けて
います。
濱口さんは1926年生まれ。大阪の電機メ-カ-に勤めていましたが、30歳の時に父
親が他界。後を継ぐことを決断しました。仕事に向き合う姿勢は、父親の後ろ姿
から学んだものだと感じています。父親について「コツコツ真面目にやる人だっ
た。金儲けというより人が喜ぶ顔が見たい。そんな人だった」と話す濱口さん。
年季の入ったモノの修理も少なくありません。この日は、香美市の80歳の女性が
何十年も使っている日傘の修理を頼みに訪れていました。修理が終わると、丁寧
に説明をする濱口さん。修理した傘は、全て診断して使い方の手ほどきをするのが
濱口さんの流儀です。引き取り待ちの傘に付けられた使い方のメモ書きには優し
さが滲みます。「こんな時はこうして使いなさい。風の時には使わないようにとか
ちょっとしたことでも書いて付けてある」と話します。
一日におよそ70本あった注文も、1960年代から徐々に減り始め、生活のために
会社勤めをしながら傘職人を続けた時期もありました。今では、月に20本もあれば
良い方だと言います。修理代はほとんどが500円以下。それでも職人をやめようと
思ったことはありません。職人として歩むこと半世紀あまり。その原動力は、ある
伝統芸能との関わりの中にありました。
【吟の心 濱口紫柳】「子供の時から現在まで、70年余り続けてきた趣味の道。
この歳まで大きな病気をしなかったのは、声を出すことによって身体の内蔵が
強くなってきたんじゃないかと思う。感謝の心と共に詩吟の心を忘れる事ができ
ない」。子供の頃からたしなみ、多くの仲間ができた詩吟。県詩吟剣舞連盟の会長
も6年間務めました。詩吟の奥深さ。そして職人という地道な仕事は、何かを極める
という濱口さんの精神世界の中で一つにつながっています。
物不足から飽食時代へと世の中が移り変わる中、傘の修理を手掛ける職人は、
希少な存在となりました。「生きている間はできる仕事。まだ、わざわざ遠方から
訪ねてきてくれるから生きている間は続けられると思う」と濱口さん。大切にして
いる傘が直った時の喜んだ顔が見たい・・・濱口さんはその一心で地道に傘の修理
を続けます。

【スイ−ツで地域活性化 村田昭雄さん】

15年05月28日(木)

今日は、農産物を使ったこだわりのスイ−ツを作って地域を盛り上げる佐川
町の男性です。佐川町の地乳を使ったプリン。緑茶や酒粕、生姜を入れたものも
あり、バリエ-ションも豊富です。今、こうした佐川町の農産物を使ったスイ-ツが人気を
集めています。購入者からも好評の人気のスイ-ツを作っているのは、佐川町黒岩
地区の若手生産者グル-プ「黒岩じるし」です。グル-プを立ち上げた男性は、文旦や
お茶作りといった本業の傍ら、農作業を終わるとスイ-ツ作りに励みます。「プリンを
作る活動を通して当然、美味しいものを届けたい。自分達の活動がきっかけで
地域の盛り上げる要因となってくれたら有り難い」。今日の土佐人力は、黒岩じ
るし代表村田昭雄さん(40)です。
佐川町にあるJA直販所「はちきんの家」。ここで販売されているのが佐川町産
の牛乳。いわゆる「地乳」を使ったプリン。スタンダ-ドな物から酒粕や生姜入りとい
った変わり種など7種類の品々が並んでいて、地元の女性の人気を集めています。
村田さんは、毎日7時過ぎに直販所を訪れて商品の売れ行きをチェックします。
佐川町黒岩地区で生まれ育った村田さんは、高知市内の高校から高知大学に
進みました。卒業後、飲食店を経営する県内の企業に就職し、調理師として働い
ていましたが、30歳を過ぎた頃、家業の農家を継ぐため里帰りしました。「色々な
モノを手を加えて一つの収穫できるまでの作物に育て上げる課程とかそういう
作業をすることが好きなので。そういう事を考えたら自分に合っている」と話す
村田さん。
村田さんが作っている農作物の一つが文旦。0.3ヘクタ-ルの畑におよそ200本の木が
あり、年間およそ5トンを生産しています。今の時期は、年に1回の大切な受粉の時期。
良い実をならすために、小夏やハッサクといった異なる柑橘類の花粉をつけていきます。
単純な作業ですが、良い花を一個一個丁寧に探してつけるため、時間と根気のいる
作業です。「これが本当の文旦の始まりなので収穫の12月に一個でも良い実がなる
ように思いながら作業してます」と村田さん。村田さんがもう一つ手掛けているの
がお茶作りです。およそ1.1ヘクタ-ルの畑で年間12トンあまりの茶葉を生産しています。
県内でもお茶の生産が盛んな佐川町ですが、生産者は年々減っているといいます。
父親から受け継いだ畑を次の世代に残そうと励む中、村田さんは商品にならない
いわゆる'はねモノ'が大量に出てしまう現実に直面します。例えば文旦だと1割程
が廃棄されていました。「商品にならないまでも、十分に美味しいモノなのに何とか
ならないか」村田さんは考えた末に加工品にして売り出すことを決めました。
2010年に村田さんは、同じ黒岩地区で農業を営む若手生産者達に声を掛け、4人の
メンバ-で「黒岩じるし」を立ち上げました。プリンを中心に、これまでに25種類の商品を
開発。黒岩地区の農産物にこだわったスイ-ツは、年々評判を呼び、今では佐川町のふる
さと納税の商品にも選ばれ、町を代表する一品になりました。ネットやカタログで、首都圏
や関西からも注文が来るようになり、「黒岩」の名前を全国に発信しています。「プリン
を作る活動を通じて、美味しいモノを届けたいという思いが一番。この活動がきっかけ
で、地域を盛り上げる要因となったら有り難い」とその思いを話す村田さん。
村田さんの将来の目標は、黒岩地区に自分達の拠点を作って交流人口を増やすこと
です。「様々なイベントを立ち上げ、黒岩地区の情報を外へ発信し、外から地区に人を呼び
込む。そういう交流ができるのが一番の目標」と話す村田さん。故郷に明るい未来を
描こうとする村田さんのモット−とは。【成せばなる 村田昭雄】「いざやってみた
ら、思いの外カタチになる。自分の力だけでなく色んな人の力を借りる事でカタチに
できることが分かったので、どんな事でも嫌がらずにまずはやってみる」。チャレンジ
精神をモット-に掲げ、村田さんはこれからも大切な仲間と共に黒岩の未来を切り開いて
いきます。

【郷土の歴史を多くの人に伝えたい 宅間一之さん】

15年05月21日(木)

今日は、キャリア50年を誇る郷土史研究の第一人者です。今月16日、長宗我部
一族が築いた岡豊城跡で、全国の長宗我部ファンが集うイベントが開かれま
した。特設ステ−ジでのクイズ大会。難易度の高い問題を次々と出題し、全国
のファンを唸らせたのは郷土史研究の第一人者です。40代の頃、満足な道具も
ない中で始めた遺跡調査。苦労の末に辿り着いた発見は、全国的な注目を集め
ました。80歳になった今、郷土の歴史に対する思いとは。今日の土佐人力は、
元歴史民俗資料館館長宅間一之さん(80)です。
長宗我部一族の居城があった南国市岡豊の歴史民俗資料館に新たなシンボル
が誕生しました。「元親飛翔之像」です。この像の設置に向け、デザインの設定や
資金集めなどに奔走してきた宅間さんは、地元の人達などと一緒になって、
およそ2年間をかけて完成にこぎ着けました。宅間さんの自宅の書斎には、市
町村の歴史や土佐の武将に関する本などおよそ3千冊が並びます。専門は「中世
の山城」だと話す宅間さん。50年にわたって郷土史を研究してきた第一人者で
す。書物を読むと共に考古学を交えた研究にも取り組み、高知の歴史を繙いて
きました。「歴史は一度覚えたら変わらないという事はない。常に情報をキャッチ
しながら、今どこまで研究が進んでいるのかも勉強していく事が大事」。
宅間さんは1935年、高知市春野町に生まれ、中学生の頃に歴史に興味を持ち、
大学に進むと郷土史の研究にのめり込んでいきました。卒業後、日本史の教員
になった宅間さんに転機が訪れたのは40代の時でした。学生時代に考古学を
学んでいた事から、県教委が行う発掘調査の担当を任されたのです。当時、専門
の職員はおらず、一人でのスタ-トでした。1980年から83年にかけ、高知空港の拡張
工事に伴い行われた南国市田村遺跡群での発掘調査。調査の結果、弥生時代の
水田跡や当時の人が残した足跡が発見され、宅間さんが手掛けたこの調査は
全国的な注目を集めました。「弥生人という時代の人間と自分達の繋がりを感
じた感動的なシ-ンでした」と宅間さんは当時のインタビュ-に答えています。
この日、宅間さんは高知市が企画している歴史講座で藩政時代の土木事業で
名を残した野中兼山について解説しました。研究キャリア50年を誇る宅間さん
は、史実に基づいたものだけでなく、裏話を織り交ぜながら話を進めます。分か
りやすく聞く人の好奇心を沸き立たせる話術が宅間さんの真骨頂です。「まず
知ってもらう。現地に行ってもらう。それによって歴史の門戸を叩いてもらう」
と宅間さん。
今月16日に開かれた「長宗我部フェス」。毎年県外も含め多くの元親ファンが
集結する一大イベントです。設置されたばかりの元親飛翔之像も注目を集めま
した。イベントの実行委員長を務める宅間さんはサ-ビス精神旺盛で、全国のファンの間
でも有名人です。会場では地元の人達が飲食ブ-スを設けていました。地元の人達
は、宅間さんの働きかけがきっかけで、地域の歴史で地元を盛り上げたいと参加
したのです。宅間さんは「もっと岡豊に来てもらいたい。歴民に入ってもらいたい。
元親をもっと理解してもらいたい。僕たちができることは何だろう。地域が盛り
上がったからこそイベントができた」と話します。元親像の設置やイベントの開催。
宅間さんには郷土の歴史を活かした地域の活性化という熱い思いがありました。
そんな宅間さんはこんな言葉を色紙に書いてくれました。【飛翔 宅間一之】
「元親の銅像も飛翔之像と命名されている。人間はいくら歳を取っても飛び羽ばた
いていくような心構えが大事」。郷土の歴史を多くの人に伝えるため。そして、
歴史への関心で地域の活性化を目指して。宅間さんは第一人者として生涯現役に
こだわります。

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