RKCアーカイブ

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2021.10.27(水)放送

「白滝鉱山(大川村)」のアーカイブ

今回は、かつて、大川村にあった「白滝鉱山」のアーカイブ。

現在は、日本で、一、二を争う少人数の自治体の大川村ですが、全国から労働者が集まり大変栄えた時代でした。(高知市の平石さんからのリクエスト)



<白滝鉱山(大川村)>

・「謝肉祭(大川村)」  * 平成18年(2006)
大川村特産の黒牛などを堪能できる人気イベント「謝肉祭」

大川村は、現在は人口400人足らずの小さい村ですが、謝肉祭の会場となっている白滝地区には、かつて、今の何倍もの人々が暮らす‘鉱山’がありました。


・「かつての白滝鉱山」  * 昭和38年(1963)

白滝鉱山があった場所は、愛媛との県境に近い朝谷地区昭和30年代、ここで働くため、全国からたくさんの人がやって来ました。

白滝鉱山で採掘が始まったのは、江戸時代の元禄年間昭和になってから本格的な操業が始まり、戦時中は軍需工場の指定を受けました。

地下の坑内では、湿気や火薬の匂いが漂う中、頭に明かりをつけた作業員が、たくさん、懸命に働いていました。


・「白滝の人々の暮らし」


たくさんの働く人たちとその家族で、白滝地区賑わいました昭和39年大川村の人口は4500人。その半分以上の2500人が白滝で生活していました。

・「学校」

大正時代に創立された白滝小中学校昭和30年代後半には、小学校は、児童数400人中学生約200人。白滝で暮らす人の中には、親子3代、この学校に通った人もたくさんいました。


・「診療所」

診療所には、看護師助産婦レントゲン技師まで揃い、白滝の人々の健康を守っていました。

・「店」

物資供給所には、日用品衣料品など、暮らしに必要な物は全て揃い、県境近くの山間部ながら、瀬戸内から運ばれた新鮮な魚野菜もありました。


・「風呂」

お父さんたちの働いたあとの楽しみは「共同風呂」子どもたちと一緒に入るお風呂は、疲れが取れる ホッとできる時だったんでしょうね。

・「家庭」

明治初期にはわずか4世帯だった山肌の集落は、全国から労働者が移り住み、2500人が住む鉱山の街に変わりました。鉱山で暮らす人たちは、まるで一つの大家族のように強い絆で結ばれ、白滝は、みんなの大切な‘ふるさと’でした。

しかし、この生活は永遠ではありませんでした

・「白滝鉱山の廃坑」

豊富だった山の資源にも、終わりが見えてきました。

掘り始めた場所は、標高800mでしたが、どんどん下へ掘っていった結果、昭和40年には、海抜0メートルに、さらに、閉山が決まった最後の頃には、海面の下約120mにまで…。山は、もう限界に達していました

そして、昭和47年3月、白滝鉱山は、約270年の歴史に終止符を打って廃坑に。鉱山の町はなくなり、人々は、山を離れました。

・「白滝ふるさとまつり」

それでも、鉱山で暮らした多くの人たちは、白滝への想いを持っていました。

白滝を懐かしむ人たちの声で、年に一回集まれるようにと、廃坑の12年後から「白滝ふるさとまつり」が始まり、毎年おこなわれています。

今ではなくなってしまった‘白滝鉱山’。しかし、あの‘白滝’の町は、当時の人の心の中存在しています


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